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海を歩く神経に塗り替わる皮膚

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2011年

[] 熊野古道

いつか見た苔の道の写真に、いつか歩きたいと思っていた。

和歌山に入り、バスを降りた。歩き始めはくしゃみが止まらなかったのが、しばらくたつとすこしずつ落ち着いて苦しさがなくなっていた。

山の中は清々しくて木漏れ日とそよ風が気持ちよくて、うぐいすが鳴いて思わず止まった。それから何度も鳴き声は聞こえた。春、と思う。

ひとりで歩くとたとえ道標があっても山は不安で、だれとも行き交わないのがよけいに気持ちをしずかにさせた。道は整えられていたけれど、それでも違う方角に向かっていたらもう戻れない、と思う。私は道をおぼえられない。

あたたかくなりすぎる前の季節でよかった。山登りの準備を整えたわけでもなかったから、1時間とすこしの道はちょうどよかった。そして、だから、苔むす、というような道ではなかったのも、靴のことを考えればよかったと思う。なにより屋久島の白谷雲水峡の苔をたった1時間に期待するのが間違っているのだ。

こんなにもまっすぐに立ち並んでいる中を、見上げて。

行き先を見下ろす。あの鳥居へ。

と思っていたら、その手前、山の最後に祓所王子。神サマは得意じゃないけれど、礼をして進む。

人の声がする、と思って顔を上げたら兜のような屋根が見えた。なんとなくカメラを向けたのだったけれど、ここが熊野本宮大社のお宮にもっとも近い場所だったらしい。裏手で、だから人はいなくて、撮影禁止の札もないのだった。

表の入り口にたどりついたら人がたくさんいて、お守りを売っていて喫煙所があって気持ちがとまった。空白になる、というのはああいう瞬間をいうのだろう。山を聖なる場所とした昔のひとは正しいと思った。

それで、鳥居に向かった。大斎原。一本道をずうぅぅっと歩き、奥にはなにがあるかといえばなにもない広い空間だけがあって、でもそれでいいのだと思った。

人の集まる祈りの場は苦手。私は自分に向けて誓う。風に、木々に、空に、放つのが祈りだ。どこにも届かなくていい、自分のなかで、思い、撫で、握りしめてこの身の内にくるむ。そういうやりかたでしか祈れないし、そういうときはなにも考えなくてももう祈っているのだと思っている。

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