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海を歩く神経に塗り替わる皮膚

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2009年

[] 安家洞・氷渡洞

ここでの時間を、どう言葉にできるだろうかと止まって、感じたことを言葉にするのは本当にとても難しいことだと思った。ただひとつ、「感じるのは『自分』しかいない」ということだけ、この言葉そのままの意味として書いておける。

きっとどんなに言葉を尽くして書こうとしたって、私にとってしか意味はないことだろうし、「感じるのは自分だけ」という言葉で書きたいことは終わっている。それでも、だからこそ、この先は私自身のために記録しておこうと思う。

案内をしてくださったレンジャーの方は男性で、参加したのは私ともうひとりの女性。この3人で洞内を動いた。洞窟入り口までのあいだ、洞窟のなりたちや鍾乳洞を傷つけないためのいろいろなレクチャーを受けた。洞窟にとって一番いいのは人間が入らないこと、手を加えないこと。ガイドの中には鍾乳石を触ったり叩いたりして見せる人がいるけれど、それは鍾乳石を壊してしまうだけでなく、ひびが入って折れてしまえば岩盤全体がごろっと割れて洞内がつぶれる可能性もある、たいへん危険な行為だということ。洞内はつねに変化しつづけていること、その変化を止めてしまわないように、入る人間は本来、何も持ち込んではいけないし、何も持ち出してはいけないということ、などなど。

安家洞は迷えば命取りになる巨大迷路。まだまだ新しい穴や道が見つかっていてなかなか入っていけない場所もあるために全容未解明の穴。観光用に整備されている場所もあるけれど、私たちは入ってすぐのところにある立ち入り禁止の場所を入るように言われた。「探検ですからね」と。

そこから先は暗闇だった。観光コースからの灯りがまだ届くので、岩だらけであることはわかるけれど。「行ってしまうと危険な方に進みそうになったときだけストップをかけますから、どちらかが先頭で、どうぞ。先頭は途中で交代してもらいますけど」と言われて一瞬止まり、何も考えずに「行きます」という言葉が出て、それから一呼吸置いて歩き始めた。頼りにするのは自分の体とヘッドライトだけ。

そこからのことをこと細かに書くことはできない、と思う。なにしろどこをどう歩いたかなんてさっぱりわからなくて、探検を終えたあとに大きな地図を見せてもらってどこを歩いたのか確認したけれど、それでもわかるのは特徴的な分岐点や、名前のつけられていた特徴的な岩だけだったのだから。

洞窟の中ではただ、一歩一歩全身使ってバランスを取りながら、足をおろせる岩を探しながら、その岩が転がらないかを確認しながら、一歩一歩に緊張と自分の体への期待と疑いとを持ちながら、来た道を振り返りながら、その先を見ながら、ほんとうに一歩一歩進むしかなかった。そしてただそれだけのことが、自分の感覚にとってはとても多様な出来事だった。

岩の登り降りで軍手はあっという間に泥状になって、来た道もまたあっという間にわからなくなった。目の前に、頭上に、背後に広がる大きな大きな岩の世界。そこに長い年月をかけて出来上がった鍾乳石、石筍、石柱の本当に形さまざまな造形が、鍾乳石をつたって滴り落ちる水の光るさまが、すこし歩けばまた新たな姿で見えてくる。どこまであるのかもはや天井のわからない天井を見上げたら、なんとそこからレンジャーの方は降りて来たりもするという。体いっぱいに伸ばして自分の足の届いた範囲ですら、這い上がったあとに足場が見つけられなくて降りられないと思うのに。

光のない世界で、目を閉じても開いてもいつまでたっても闇は闇のまま、ただ水の落ちて跳ねる音だけが聞こえていた。「そこで声を出して手を近づけたり遠ざけたりしてみてください。なにかわかりませんか。」レンジャーさんに言われて自分で声を出して手を動かしてみた。声の反響の具合からか、手が近づいてくると「何かが近づいてきた」と分かる。コウモリは同じしくみで、超音波を使って距離を測っていると言われて、ああ、これなんだ、と思う。

それから再びライトをつけてみたときの眩しさときたら…「人間の目って意外と見えるんですよね。」それまで頼りないと思っていたライトがとても眩しくて、明るすぎると思った。全部見えないと、という無意識があったことに気づいて、すくなくともこういう探検では、すべてが見えている必要はないのだと思った。

氷渡洞は、すぐにそれとわかる大きな空洞が入り口。その空間より奥はないと思われていたところに、風の吹き出してくる穴があると気づいた立命館大学のグループが風穴を塞いでいた岩をどけて入ったところ、まだまだ奥があると分かって現在探検中とのこと。

その立命風洞の上でレンジャーさんが「そっちから入ってみますか?」と。覗いてみて「こんなところをよく…無理無理、とてもじゃないけど滑り落ちて大けが」と思ってもうひとつの大きな穴の方から潜り込んだ。

洞窟では高さも距離も感覚がまったく機能しなくなる。時間にまったく比例しない。たぶん、足を動かすその一歩一歩しかわからないし、そこしか意識できないから。しかも穴の高さは場所によって突然高くなっていたりするし、高いところでは40mや50mという、暗闇が上に向かって広がるという状況では自分がどれだけ降りたのか、どれだけ登ったのか、振り返ってみて仰天&戻れないと思う、その繰り返しだった。

そしてまたここで、鍾乳石の巨大なカーテン、ドレープ、くらげ、珊瑚、苔のような細かな鍾乳石、キラキラ光る真っ白な結晶と滴、土や泥の上に被さった雲の波のようなうねり。どうやって持ち込んだのかさっぱりわからないと思うような場所にほぼ垂直にかけられた梯子をいくつも登り降りして、岩にへばりついて匍匐前進。怖くなったら岩に体を近づけるのが一番だと気づいて、これはたぶん地震でもそうなんだろうと思った。

それから水の中を歩いた。太陽の光を受けずに地下を流れ流れてきた水に、手の指は数秒で芯まで冷たくなった。それでも靴下と軽登山靴を履いた足は水温9度にもすぐに慣れて、そのあとはもう「えいや」と膝上までざぶざぶと、白い線の走る青黒い庭石のようにきれいな岩の上を楽しく歩いた。

不純物のない鍾乳石はライトを当てるとその光を通して白く光り、そんな石が花の形になった水中の鍾乳石の花は雪の結晶のようで美しく可憐だった。「この白い世界が、(私たちの立っている)この穴の上にも上層の穴としてぽっかり開いているんですけどね。そこには命綱を20m上り下りする訓練をすれば行けますよ」と言われれば行きたくならないわけがない。

穴の入り口に戻ってきたとき、最初に怖じ気づいて入らなかった立命風洞を前に「登ってみますか?行くならどうぞ。その場合は荷物は預かります」と言われたので一瞬止まって、また考えなしに「行きます」。体ひとつでまた岩の隙間を、力を入れて体をひっかけ押し上げ顔を出して這い出た。

熱帯魚みたいな原色の魚やちょっとこわいような生き物を最初に食べたひとはすごい、とはよく言うけれど、洞窟も、最初にこんなところに潜ったひとはすごい、と思うし、最初じゃなくてもあとにつづいて潜ったひともやっぱりすごい、と思った。

洞窟の中で育つ鍾乳石。割れ落ちた鍾乳石の上に滴り落ちる水がたまってそこから再び新しく鍾乳石が育った、というものがたくさんあって、その成長に屋久島で見た着生を連想して、鍾乳洞もまた生き物なのだということが実感としてと言えばいいのか皮膚の内側が感じるようにして感じた。「冬には氷も氷筍になるし、それはまさに石筍と同じ形をしているんですよねえ。何千年とたったら冬のつららが石として広がっているという光景が見られるんじゃないかと私はよく想像しています。」たぶん、そうなんだろう、と深く頷かされた。

どう進んでもいい、ただし自分の体がそれを許すなら、という無限の自由を、やってみてどうなるかわからないという不安と恐れを抱きつつ自分の体の動かし方を真剣に意識しながら動く、ということ。ふらふらしながら歩き、バランスの悪いまま立ち、進み方を迷い戸惑い、態勢を整えられる場所にもう一度戻って立ち方を直して、そこからもう一度挑戦する、ということ。その一歩一歩が挑戦と達成の繰り返しで、この時間は、私の感覚にとって、強く、斬新で、かつ、興奮に満ちたものだった。

体験するなら→NPO法人 日本洞穴探検協会

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